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【記者会見-3】「高校時代はインターハイが一番印象に残っています(高橋)」

8月19日(水)、2016年リオ五輪女子ダブルス金メダリストの髙橋礼華/松友美佐紀(日本ユニシス)がオンラインによる記者会見を行ない、女子ダブルスとしてのペア解消、髙橋の現役引退、そして松友が混合ダブルスに転向することを発表した。ここでは、2人の会見の様子を数回に分けて紹介する。


――競技人生を振り返り、ペアを組み始めた聖ウルスラ学院英智時代の思い出で、深く心に残っていることは?

髙橋 昔過ぎてあんまり覚えてないんですけど(笑)、やっぱりインターハイ(2008年)がすごく印象に残っています。そのインターハイは、私が現地に入ってから足をネンザ(右足首)して、団体戦に出場できませんでした。当時、私がキャプテンだったのに、団体戦に出られなくて悔しかった。個人戦も大事ですけど、やっぱり高校生は団体戦が一番の青春。団体戦に向けてみんなで頑張ってきたのに、私はベンチに座って“なんで私はここで応援しているんだろう”“なぜ第1ダブルスに出ていないんだろう”という気持ちもありました。

その後、田所先生が「個人戦もキケンさせる」ということを松友に話しているのがチラっと聞こえてしまって、それがすごく悔しくて……。ネンザしてから個人戦が始まるまで4、5日あったのですが、“優勝できなくてもコートに立ちたい”という思いでいました。足もすごく腫れていましたが、痛くても我慢しながらフットワークしたり、後輩に打ったりもらったりして、必死に田所先生にアピールしたのを覚えています。それが田所先生に響いたのか、何も言われずに個人戦に出させてもらったので、そこで私がアピールしなかったら個人戦はキケンになっていたのかもしれない。個人戦に出場してなかったら、ここまで来られなかったかもしれないので、あの時、痛くても田所先生に“私はできるよ”とアピールしてよかったなと思います。

松友 先輩が3年生で、私が2年生のときのインターハイです。私から見てもわかるくらい、先輩が大きなネンザをしていたので、“大丈夫かな”と思いながら個人戦の日まで過ごしていました。いざ試合になったら、先輩は普通にプレーしていたので、あらためてすごいなって思いましたし、ペアとして一番大事な部分が私たちは似ていたのかなって思います。あのインターハイは、とてもいい思い出です。

2人の思い出の試合にあがった2008年インターハイ。準決勝では髙橋の妹・沙也加とも対戦した
インターハイ個人戦優勝時の写真。優勝後のインタビューで髙橋は「悔いの残らないようにプレーしようと思っていた」と話している

――  ”タカマツペア”とは2人にとってどんな存在、居場所と表現できますか。

髙橋 難しいんですけど、松友のことは妹みたいな存在だなって思っています。家族よりも長い時間一緒にいますし、妹がもうひとり増えたような感じですね。タカマツペアとなると、姉妹でもないし…なんですかね。姉妹、家族などでは言い表せられない2人だと思います。

自分たちは、あこがれだった中国ペアのプレー面をマネして、そして、そのペアにはない部分を2人でつくっていこうと考えてきました。だから、私たちのプレーは、とくにコンビネーションなどは他の人にはマネできない部分かなと思います。初めてペアを組んだ時もぶつかったりしなかったですし、すごくしっくりきていました。きっと、何か合うモノがあったんだろうなと。他の人と組むとできなかったことが、2人が合わさって一つのすごいモノになる。ダブルスは本来そういうモノですけど、それを自分たちがもっともっと、他の人たちにはできないようなプレーをすることができたかなって。(タカマツは)誰にもマネさせないような2人なのかなと思います。

松友 私が思っていることを先輩がいってくれました。(タカマツというのは)言葉では表せられないですし…軽いモノではないかな。それくらい、2人で積み上げてきた時間というのが、大きなのだと思います。

―― 髙橋選手が引退の決断した詳しい経緯は?

髙橋 東京五輪が今年開催されていれば、出場できてもできなくても、レースまではしっかり戦おうと思っていました。(3月の)全英OPが終わった時点では、アジア選手権(フィリピン)だけ(開催の可否が)決まっていなかったので、全英の準決勝で福島由紀/廣田彩花ペアに負けた後に2人で話した時には「アジア選手権が開催されれば、そこで最後にしよう」という話はしていました。まさかこれほど大会が中止になったり、五輪レースが来年に延期になるとは思わなかったので、自分の中でもどうしようと悩みました。やっぱり、自分の中では…父が、リオ五輪を見に来ることができなかったので……。東京だったら見に来られるかもしれないから、そこまで頑張ろうって思ったのも、もちろんありました。

あとは、リオが終わってから…私が思った以上に、たくさんの人が私たちのことを知ってくれて、たくさん応援してくれて……。体育館にも応援に来てくれたり、海外にもいろんな国にファンがいて、応援してくれる人たちのことも考えると、“今ここでやめていいのかな”と…。それに、ここでやめたら“逃げた”って思われるかもしれないとか……。いろいろ考えたんですけど、でもやっぱり、自分の気持ちが一番大事だと思って、この決断になりました。私の性格上、悔いがあったらそのままではやめない。

全英の準々決勝、陳清晨/賈一凡ペアと対戦した時に、その前の中国OPではボコボコで負けたけど、全英の準々決勝ではすごくいいプレーができて、最終的にはファイナルゲームで勝つことができました。

実はその2時間くらい前に、“全英OPが終わった後、残りのレースが中断になる”と聞いていました。それを聞いた時に、私の中でスイッチが入ったんです。もしかしたら、(中国ペアと)最後の試合になるかもしれないって。そしたら、勝っても負けても、悔いなく2人のプレーを出しきって終わりたいと思いました。その準々決勝の試合が私の中ですごく大きく、全英から帰ってオリンピックが延期になったり、自粛生活で2カ月ぐらい家にいて練習ができない中で、自分の気持ちと向きあう時間が多くなりました。毎日“どうしよう”、“いつやめよう”って考えるようになり、本当はトレーニングをしなくてはいけないのに、“体を動かしたくないな”って思ってしまったりもしました。

自粛期間で本当に長く練習ができなかったけど、自分の気持ちと向き合う中で、全英の試合で私はやり切ったと思いました。来年の東京五輪に大逆転で出られたとしても、金メダルを取れるのかと考えたときに、あと1年ってやっぱり自分の中で厳しいなとも思ったので、家族やファンには申し訳ないけど、私の気持ちをしっかり固めて、松友やスタッフに話そうと。自粛期間に、すごく考えて決断しました。

―― 日本バドミントン初のオリンピック金メダリストとしてプレーした4年間の中で、髙橋選手の中にあった金メダリストの心境(責任感・期待・不安)は、どう変化していったのか。

髙橋 メダルを手に持つと、“金メダリストなんだ”と思うことはありますが、バドミントンをしている時は、私自身、どこか金メダリストとしての自覚がないというか、未だに信じられない部分はあります。周りからは「金メダリストってなかなかなれないよ」と言ってもらうこともありますが、自分の中では、例えば、中国の林丹(リン・ダン)選手、於洋(ユー・ヤン)選手みたいに、オーラのある選手ではないな、と思っています。本当は、林丹選手みたいに五輪で連覇する選手になりたかった。ただ、それをめざすのは相当な覚悟も必要ですし、それを成し遂げることは本当にすごいことなんだなと、あらためて思っています。

バドミントン界初の金メダリストだったり、初めての世界ランク1位など、“初めて”はたくさんついているんですけど、自分自身は、そこまですごいとは思っていない。でも、今までは金メダリストを背負いながらプレーしてきましたが、今後はそれがなくなると思うと、ちょっとホッとする部分はあります。

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取材・構成/バドミントン・マガジン編集部

写真/アフロスポーツ・日本ユニシス

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