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【五輪特集】オリンピックへの挑戦! 1992年バルセロナ五輪へ

リオ五輪開会式

女子は世代交代、男子も世界は遠かった

選手たちに目を転じると、世代交代が始まっていた。ソウルが終わった年の全日本総合を最後に、女子の第一線を率いて来た北田スミ子(現・芝)が「勝つためにやってきました。それが、生きがいでした」という言葉を残して16年間の競技社生活に別れを告げた。最後の決勝で戦った、2歳下の陣内貴美子が日本女子のキャプテンとして後を受け継いでいた。

「北田さんが引退して、私のなかに強くあったのは、〝陣内の代になって、日本が弱くなったといわれたくない〞という思いでした。これが一番苦しかった」(陣内さん)

16歳で全日本メンバーとなった陣内も、このとき24歳。世界チャンピオン国だった日本を知る選手は、もはや自分以外誰もいなくなっていた。下からは宮村愛子、水井妃佐子といった若手が追いかけてきている。酷使してきた体は、悲鳴を上げ始めていた。オリンピック出場に燃えるどころか、〝2年後の90年、日本で開催されるユーバー杯で、ちょうどこの年は日本代表10年の節目を迎える。この大会を「引退」の花道にしよう〞と思い始めていたという。それを思いとどまらせたのが、当時の池田信孝全日本男子監督だった。

「湯木(博恵)も俺たちも、どれだけ頑張ってもオリンピックはなかった。おまえにはチャンスがある。ほんの少しでも可能性があるんだったら挑戦してみる価値はあるんじゃないかといわれたんです。そういわれて、3カ月考えました」

そして、覚悟を決めた。

一方、男子チームは苦しんでいた。当時、日本トップを走っていた松野修二、松浦進二でさえ、陣内同様、オリンピック強化指定選手に選ばれたものの『「はっきりいって五輪は頭にありません」(松野)、「バルセロナをいまからねらっていこうという気持ちはありません」(松浦)』(本誌89年6月号)と答えている。それほどに、世界の情勢は過酷だった。「アジア勢が全種目を制すなか、世界から離される日本」と題した記事のなかで、池田監督は次のように語っている。

『いま、世界各国は大変なスピードで力をつけてきており、まさに戦国時代といえる。そしてその中に参加できなくなりつつあるのが実情だ。なんとかしなければならないが、何から手をつけてよいのかわからない。日本の関係者は世界の情勢を知らなすぎると思う』(本誌90年5月号)

遠くに見える五輪のマークに、協会も選手もみな手探りであがいていた。

90年に東京で開催されたユーバー杯で日本はベスト4に進出したが、まだオリンピックについては具体的なことが見えていなかった(写真は陣内〔左〕/新木)
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