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【五輪特集】オリンピックへの挑戦! 1988年ソウル五輪

リオ五輪開会式

4年に一度行なわれるスポーツの祭典・リオデジャネイロ五輪が開幕。今回で7回目を迎えるバドミントン競技も、11日からスタートする。日本代表は9名の選手が参戦。世界ランキング1位の髙橋礼華/松友美佐紀を筆頭に、奥原希望、山口茜、早川賢一/遠藤大由らがメダル候補として悲願の「金」獲りに挑戦する。

 

バドミントン・マガジンでは、世界のトップクラスへと成長した日本の歴史を振り返る「日本バドミントン オリンピックへの挑戦」を連載してきた(本誌16年2月号から8月号まで)。今回はリオ五輪企画として、特別に誌面に掲載した内容を紹介する。第2回は、エキシビションマッチとして行なわれた1988年ソウル五輪の様子を振り返る。

 

日本バドミントンオリンピックへの挑戦

第2回 1988年ソウル五輪

今年は4年に一度のオリンピックイヤー。急成長を遂げ、日本バドミントンはいまや複数のメダルを期待されるまでになった。それは先人たちのたゆまぬチャレンジによるものでもある。本連載では、過去のオリンピックにおける日本バドミントンの奮闘を振り返る。今回は、ようやく正式種目が見えてきたソウル五輪前後の動きにスポットを当てる(バドミントン・マガジン16年3月号に掲載)。

文/永田千恵

 

1972年のミュンヘン五輪で公開競技となったバドミントン。この大会に出場し見事、金メダルに輝いた中山紀子(旧姓・高木)さんは、このとき「次のモントリオールで正式競技になるのではないだろうか」という話を耳にし、期待を抱いていたという。

しかしながら、その願いが現実になるまで、じつに16年もの月日を待たなければならなかった。これほど長く待たされた大きな要因について、当時の桜内義雄・日本バドミントン協会会長は、バドミントン・マガジン(以下・本誌)の取材で次のように語っている。

『バドミントンは72年ミュンヘン・オリンピックでデモンストレーション競技として行なわれましたが、その後、国際バドミントン連盟(IBF/世界バドミントン連盟の前身)が分裂し、正式種目入りはおあずけになっていた、と私も聞いています』(1988年7月号)

 

ここに出てくるIBFの分裂とは、中国がIBFから脱退したことをさす。これが要因となって、「国際オリンピック委員会(IOC)から連盟が一つにまとまっていないと見なされ」(今井茂満・日本協会理事)、バドミントンが正式競技として認められなかったのである。

だがその後、中国が82年にIBFに復帰を果たし、世界のバドミントンの足並みが再びそろい始める。それとともに、バドミントンの勢力図が大きく変わっていった。中国が一気に世界の頂点へと躍り出たのだ。一方、日本女子界のパイオニア・中山さん、その強さで『女王』と呼ばれた湯木博恵さんといった『強豪日本』を支えていた選手たちが次々に引退。築いてきた「伝統」に陰りが見られ始めた。

そうした当時の情勢を伝えている本誌の記事を紹介する。

 

日本のジュニアよ、世界をめざせ!

(第12回日中大会〜京都大会を振り返ってより抜粋)

『男女ともかろうじて3–2で日本が勝ちを収めたが、中国の若い選手の、日本のナショナルチームの選手との対等な戦いぶりに、中国の層の厚さをまざまざと見せつけられた。男女ともダブルスは日本の実力が上回ったが、シングルスは中国強しの感がした。

(中略)

かつて日本もチャンピオンであった。近い将来、中国からチャンピオンの座を取り戻さねばならないが、日本の高校生、中学生がこの実力をどう感じたか。奮い立つ気持ちになってくれたであろうか。筆者は一人でも多く「ヨッシャ!」と意気込む日本のジュニアが出現してくれることを期待するものである』(87年8月号)

 

このほかにも、当時の本誌には、『中国レポート 中国業余体育学校のバドミントン指導』『中国ジュニア指導書より〜世界ナンバーワン 中国のジュニアはこうして育てられる!』など、中国に関する記事が多く見られる。現在のように、海外の情報があまり入って来なかった時代に、である。ここから当時、日本にとって中国がどれほど脅威になっていたかがうかがえる。

 

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