一気に世界の頂点へ
小宮氏が第一歩を記してから、日本バドミントン界は大きく世界への扉を開いていく。3年後の64年、トマス杯を東京で開催。その2年後、日本女子がユーバー杯に初出場することになる(当時は、トマス杯とユーバー杯は別開催)。この国別対抗戦への参加が決まったあたりから、日本代表としての〝選手強化〞という考え方がバドミントン界のなかで認識されるようになり、選手を集めた合宿が行なわれるようになる。当時の合宿の雰囲気と、バドミントンに対する国内での認知度がわかる新聞記事を紹介しよう。
青春に悔いなし〜ユーバー杯に賭ける乙女たち
バドミントン久里浜合宿探訪記
『同じ女子スポーツでありながらバレーほどの華やかさは持たないスポーツにバドミントンがある。対外試合の経験は37年のアジア大会(ジャカルタ・当時4位)というから、人気絶頂の女子バレーと比較すると、まさに月とスッポン。
第4回ユーバー杯(国際女子バドミントン選手権=場所未定)が開催されることに備え、久里浜で第1次合宿に励む9人の選手は「初参加で初優勝を…」と真剣そのものだ。わずか5人の代表選手の座を目指して、9人の女性はその清らかな青春をバドミントンに捧げ、ドロだらけの床をころげ回っている』(内外タイムス65年3月20日/19日発行)
いまではクレームの来そうな記事である。この記事を書いた記者には、その初出場・初優勝が本当に起きるなど、想像もつかなかったのだろう。しかし、それ以上に想像がつかなかったのは、戦った選手たちだった。中山さんは次のように語っている。
「当時は情報がなく、ユーバー杯そのものがなんだかわかりませんでした。戦う相手である〝世界〞自体を私たちはもちろん、監督もコーチも誰も知らなかった。みんなで未知の世界へ飛び込んでいくような気分でした。実際、コートの向こうに立つ外国人選手はみんな背が高くて、まるで壁のようでした。プレーは壁打ちをしている感じでした」
作戦は何もなかった。飛んで来た球はとにかくコートの向こう側に返す。できたことはそれだけだったという。そのねばりが勝利につながったというのが、このときの優勝だったと振り返っている。ただ、一つだけ、特別に実行したことがある。それは、テニスのスコートを購入したことだった。
「トマス杯に出場していた宮永(武司)さんから、〝女子選手はスコートをはいている〞と教えてもらったので、見劣りしてはいけないと思ったんです」
なんとも女性らしい、微笑ましいエピソードである。単発で終わったミュンヘン五輪 男子が第一歩を記し、女子が大きく花を咲かせた、日本バドミントン界の〝世界〞への挑戦。ここから、日本女子は名実ともに世界の強豪へ、仲間入りを果たす。その中心的な役割を担っていくことになるのが、女王と呼ばれた故・湯木(のち新沼)博恵さんと、栂野尾(旧姓・竹中)悦子さん・相沢マチ子さんペアだ。
オリンピックも世界選手権もまだなかった当時、世界最高峰の戦いといわれた全英選手権で、どちらも4回の優勝を果たしている(栂野尾さんは単でも1回優勝)。
こうした日本の活躍の一方で、バドミントン自体もさらに発展していく。世界選手権が創設される前に、オリンピックの追加種目としての検討が始まり、72年、ミュンヘンオリンピックで初めてバドミントンが公開競技として採用された。日本からは中山さん、湯木さん、小島一平さんの3選手が出場。中山さんが金メダル、湯木さんが銅メダルを獲得している。
このことから、バドミントンは4年後のモントリオール大会から正式種目になるかと思われた。しかしながら、それは16年もの長きにわたって、待たなければならなかったのである。