4年に一度行なわれるスポーツの祭典・リオデジャネイロ五輪が開幕。今回で7回目を迎えるバドミントン競技も、11日からスタートする。日本代表は9名の選手が参戦。世界ランキング1位の髙橋礼華/松友美佐紀を筆頭に、奥原希望、山口茜、早川賢一/遠藤大由らがメダル候補として悲願の「金」獲りに挑戦する。
バドミントン・マガジンでは、世界のトップクラスへと成長した日本の歴史を振り返る「日本バドミントン オリンピックへの挑戦」を連載してきた(本誌16年2月号から8月号まで)。今回はリオ五輪企画として、特別に誌面に掲載した内容を紹介する。第1回は、1972年ミュンヘン五輪までの日本の歴史を振り返る。
日本バドミントンオリンピックへの挑戦
第1回 1972年ミュンヘン五輪まで
今年は4年に一度のオリンピックイヤー。急成長を遂げ、日本バドミントンはいまや複数のメダルを期待されるまでになった。それは先人たちのたゆまぬチャレンジによるものでもある。本連載では、過去のオリンピックにおける日本バドミントンの奮闘を振り返る。今回はまだ正式種目に採用される、はるか前の歩みに焦点を当てる(バドミントン・マガジン16年2月号に掲載)。
文/永田千恵
昨年暮れ、海外から大きなニュースが飛び込んできた。スーパーシリーズファイナルにおいて、男子シングルスで桃田賢斗が、女子シングルスで奥原希望が優勝を決めたという。翌日のスポーツニュースでは、各局がこの話題を取り上げた。いまや、バドミントンも五輪でメダル獲得が普通に期待される競技の一つとなったということだろう。
先達たちはおそらく、こうした活躍を感慨深い気持ちで見つめているに違いない。それほど、黎明期の日本バドミントン界にとって、〝世界〞は遠いところにあった。
世界進出、その黎明期
旅番組も数多く放映され、書店の棚には世界各国のガイドブックが数えきれないほど並んでいる。いまや、誰もが気軽に出かける海外旅行。この庶民の娯楽が規制されていた時代があったなど、信じられないかもしれない。
しかし、1964年に東京オリンピックが開催されるまで、特別な理由がないかぎり、日本から外国に出ることはできなかった。そんな世代の選手たちにとって、国際大会とは「あるらしいということは認識しているという程度だった」と、バドミントン日本女子のパイオニア・中山(旧姓・高木)紀子さんはバドマガの取材で語っている。
日本人選手として、アジアを越えて〝世界〞に初挑戦したのは、60・61年と全日本総合単2連覇している小宮好雄氏(トヨタ自動車)だ。当時、すでに64年トマス杯の東京開催が決まっていたことから、インドネシアの伝説的なプレーヤーであり、国際バドミントン連盟(現BWF)の役員でもあったソネビル氏から「視察を兼ねて、全英選手権に選手を派遣すべきだ」とアドバイスがあったことがきっかけだったという。その大役を誰が務めるのか。白羽の矢が立ったのが、当時大学を卒業したばかりだった小宮氏だった。東京オリンピックの前年にあたる63年、単身で海を渡り、初出場にして単ベスト8まで勝ち残った。氏はこのときの思い出を次のように語っている。
『一番せつないのは、やはりなんといっても懐具合が乏しいことですよ。だんだん少なくなっていくお金を計算し、少しでもセーブしようと恥も外聞もなく、食わせてもらえそうなときは食わせてもらう。40日間、ロンドンからアメリカを回って羽田に帰ってきたときは、財布にわずか1ドルしか残っていなかったくらいでした。それもぜいたくをせずにでしたからね。帰ってきてから、協会にクレームの手紙を出したくらいです。
遠征中に思っていたことですが、まあ〝ボヤキ〞でしたね。もう二度と私みたいにすべてないないづくしで、ただ日本協会は「行ってこい」ではいけないと思ったんです。やはり出かける人が安心していけるだけのことはやるべきだって』(バドミントン・マガジン81年5月号)
当時、協会が払ったのは渡航費用のみ。小宮氏は新入社員ながら、会社と交渉して金銭の援助と休暇をとりつけたという。もちろん、現地の情報もまったくないままコートに立った。まさに〝孤独な侍〞だったわけである。
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